江戸時代に入り、当時輸入品で非常に高価なものだったにもかかわらず砂糖の消費は大きく増えます。その増え方は支払いとして海外へ流出する金・銀が看過できないほど莫大で、1715年から砂糖の輸入制限が行われるほどでした。そのため「享保の改革」で財政再建を行っていた8代将軍徳川吉宗により本格的に白い砂糖の国産化が動き出します。
まずは試験栽培から
それまでサトウキビは奄美や琉球で栽培されていましたが、本草学者で医師の田村元雄を中心に江戸近隣での試験栽培が行われます。これには、もともと砂糖と同様に国産化を目指していた薬草の栽培や研究が行われている江戸城内の吹上庭園や芝の浜御殿(現在の浜離宮)などが使われました。
幕府は独自に砂糖作りを研究していた日本の長州藩(現在の山口県下関市)やすでに砂糖を製造し輸出していた中国などから、砂糖の製造に関する情報収集も行います。同時に、学者による製糖技術の研究が盛んになっていきます。
そのような中、田村が1761年に製糖法を完成させ、その手順について『甘蔗造製伝』という書物にまとめます。そして、製造した砂糖を幕府に見せると、その製糖法を普及させることも依頼されます。
しかし、田村は本業が忙しく、代わりに川崎在大師河原村(現在の神奈川県川崎市)の池上太郎左衛門幸豊をその仕事に推薦しました。
全国的な生産をめざして
池上には、それより30年ほど前、父の幸定の時代に幕府からサトウキビの苗を分け与えられていたものの、成功しなかったという経験がありました。1762年に田村の推薦を受けた池上は、同じく田村推薦の神奈川宿の忠兵衛とともに、幕府の栽培するサトウキビの苗を受け取り、今度は田村の指導のもと栽培にふさわしい土地を探して植え付けを行います。これが日本の砂糖生産の始まりと言われています。
池上たちによるサトウキビの栽培はひと筋縄にはいきませんでした。しかし苦労を重ね試作を繰り返した結果、ついに1766年、育てたサトウキビから白砂糖の製造に成功し、その砂糖を幕府に献上します。同時に、当時所有していた苗と幕府から新たに預かる苗をもとに増産計画も提出しました。なんと、その計画によると12年後には1億斤(6万トン)を超える砂糖を国内で生産できる試算でした。
この増産計画と砂糖製造の普及のため、池上は1774年、1786年、1788年と三度に渡り国内各地を行脚します。砂糖の生産法を伝えたのは西日本を中心に計20か所にのぼり、その中にはのちに 「和三盆」の産地となる讃岐高松藩も含まれていました。
国内産白砂糖の普及
池上らのおかげで栽培と生産が各地で行われ、白砂糖は1712年発行の「和漢三才図会」に記載の輸入量1,500トンから幕末には産糖量が3万トンにまで達するほどになりました。(※)
このように江戸時代は、高貴な人のものだった白砂糖が庶民の手にも届くようになりだした時代でした。次回はそんな国内産白砂糖と庶民のくらしについてお伝えいたします。
※ ちなみに現代のサトウキビからの国内産糖量は14万トンほど。主に沖縄県や鹿児島県徳之島などの南方の島にサトウキビは植えられています。
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